薩長同盟は、1866年(慶応2年)に薩摩藩と長州藩の間で成立した政治・軍事上の協力関係です。一般には「坂本龍馬が仲立ちした歴史的な握手」と説明されますが、実際には、幕府との戦争に備える軍事支援や、長州藩の朝廷での立場を回復させるための協力を細かく確認した六か条の約束でした。
同盟の内容を知る手掛かりが、木戸孝允が書き留めた書簡と、龍馬がその裏に朱墨で書いた「薩長同盟裏書」です。木戸が六か条をまとめ、龍馬が内容に相違ないと保証したという記録が、宮内庁の所蔵資料として今も残っています。この記事では原資料の来歴を確認しながら、六か条の意味と龍馬の役割をやさしく整理します。
薩長同盟とは何か?最初に押さえたい3つのポイント
- 1866年1月21日、京都で薩摩藩と長州藩の同盟が成立したとされる
- 六か条の約束は、幕府との戦争を想定した支援や長州の名誉回復を柱とする
- 1866年2月5日、坂本龍馬が木戸孝允の確認書簡の裏面に朱書で保証した
同盟の当事者は薩摩藩と長州藩です。龍馬は二藩をつなぐ役割を果たしましたが、藩を代表して署名した政府間条約のような現代の書類を龍馬一人が作成したわけではありません。宮内庁書陵部が所蔵する書簡と、高知県立坂本龍馬記念館の解説が、この区別を理解する際の重要な根拠です。
なぜ薩摩と長州は対立していたのか
幕末、幕府と朝廷、外国への対応をめぐり、藩の方針は揺れ動きました。長州藩は京都での政治的な地位を失い、朝廷との関係を回復することが大きな課題になっていました。一方、薩摩藩は京都の政治に影響力を持ち、長州とは対立する局面がありました。
しかし、幕府を中心とする従来の政治体制が行き詰まり、両藩にとって協力の必要性が高まっていきます。相手が昨日までの敵だったとしても、ただ「仲良くしよう」と約束するだけでは信頼関係は生まれません。危機が起きたとき、誰が何をするのかを明確にしたことが同盟の現実的な意味でした。
薩長同盟の成立に向けては龍馬だけでなく中岡慎太郎も尽力しました。長州と薩摩の代表者、たとえば木戸孝允、西郷隆盛、小松帯刀らの判断があって初めて合意が成立します。
薩長同盟の六か条を現代の言葉で整理

木戸孝允が残した六か条は、幕府と長州の衝突やその後の政治情勢を想定した約束です。以下は内容を理解するための独自の要約です。原文の逐語訳ではありません。細部は宮内庁所蔵の資料で確認してください。
| 条項 | 主な趣旨 |
|---|---|
| 第一条 | 幕府と長州の間で戦争になれば、薩摩は兵を上京させ、京都・大坂を守る |
| 第二条 | 長州が優勢になったときは、薩摩が朝廷へ働きかけて長州を支援する |
| 第三条 | 長州が劣勢でも、一定期間は持ちこたえられるよう薩摩が尽力する |
| 第四条 | 戦わずに幕府軍が撤退した場合も、長州の立場を回復するため朝廷へ働きかける |
| 第五条 | 朝廷や京都での政治活動を妨げる勢力があれば、必要に応じて対抗する |
| 第六条 | 長州の立場が回復した後も、両藩は誠意を持って朝廷のために協力する |
六か条を並べると、同盟が単なる友好宣言ではなかったことが分かります。戦う場合、勝つ場合、負ける場合、戦わずに終わる場合まで考え、両藩がどう支え合うかを決めていたのです。これは、今後の不確実な政治情勢に備えるための取り決めでした。
「倒幕を約束した同盟」と説明してよいのか?
学校での説明では、薩長同盟が「倒幕へ向かう大きな転機」として紹介されます。それは後の歴史を考えれば重要な評価です。しかし、六か条の文面そのものは、最初から「幕府を滅ぼす」とだけ書かれた単純な宣言ではありません。
当面の焦点は幕府の長州への軍事行動への対応と、長州が朝廷で被った不利な立場を取り除くことにありました。その協力が後の政治・軍事上の力関係を変え、倒幕へ向かう流れの一つになったと理解すると、合意当時の目的とその後の結果を混同せずに済みます。
誰が六か条を書き、なぜ龍馬が裏書したのか
同盟の話し合いの後、長州の木戸孝允は、その内容を六項目に整理して龍馬に確認を求めました。宮内庁書陵部の目録によれば、木戸が送った書簡の日付は1866年1月23日です。龍馬は2月5日、木戸の書簡の裏面に朱墨で返答を記しました。
宮内庁はこの資料を「尺牘(龍馬裏書)」として紹介し、木戸家文書の一部として所蔵しています。龍馬が書いた趣旨は、表に記された六条は小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝允や自分が同席して協議した内容であり、間違いないというものです。
つまり龍馬は、契約書を一人で作り上げた人というより、異なる立場の人々が交わした約束について、確認者として信用を与えた人物でした。現代の仕事にたとえれば、仲介者が合意の議事録を読み返して「この内容で間違いありません」と保証するような役割です。
「薩長同盟裏書」は今どこにあるのか

原本は宮内庁書陵部の木戸家文書として伝わっています。宮内庁の公式サイトでは資料名、所蔵情報、由来が紹介され、書陵部の公開目録では「木戸家文書 天47」として確認できます。
高知県立坂本龍馬記念館には複製が展示されることがあり、同館の解説では、龍馬が寺田屋で手を負傷していたため、裏書きが約2週間後になったことも紹介されています。2月6日には木戸へ詫びと近況を伝える手紙を添えました。
この裏書を知ると、龍馬が華やかな交渉だけをしたのではなく、手が傷ついていても約束の確認を果たしたことが伝わります。目に見える資料を通じて人間の行動を確かめられるのが、歴史を学ぶ面白さです。
龍馬一人が薩長同盟を成立させたのか
結論から言えば、そうではありません。龍馬が果たした仲介の役割は重要ですが、長州の木戸、薩摩の西郷や小松、そして交渉の道筋を整えた中岡慎太郎らを無視しては、成立までの経緯は説明できません。
高知県立坂本龍馬記念館の所蔵品解説によると、木戸は龍馬の仲介に感謝し、会談の細部がまとまった経緯に触れています。龍馬の手柄を小さくする必要はありませんが、当事者と協力者を正しく見ることが歴史理解の基本です。
中岡との役割の違いは、「中岡慎太郎と坂本龍馬の違い」の記事で解説しています。
『龍馬伝』の薩長同盟を史実と照らして楽しむ

ドラマ『龍馬伝』では人物の心理や緊迫した会談が印象的に描かれます。その演出は歴史への関心を深めてくれますが、個々のせりふはそのまま記録された発言とは限りません。特に「誰が何を一度の会談で決めたか」は、後世の演出と書簡の内容を照らす必要があります。
当サイトの第35話「薩長同盟ぜよ」を見直すなら、六か条の表を手元に置くと、約束の意味がぐっと分かりやすくなるはずです。
まとめ|六か条と龍馬の裏書から歴史を読む
薩長同盟は、1866年に薩摩と長州が具体的な軍事・政治上の協力を約束した合意でした。六か条には戦争の成り行きに応じた支援と、長州の名誉回復、その後の協力が書かれています。そして木戸孝允が内容をまとめ、龍馬が朱墨で相違ないと保証しました。
「龍馬が二つの藩を結んだ」という短い物語に加え、実際に何を約束し、誰がその内容を確認したかまで知ることで、幕末の政治が具体的な人の仕事として見えてきます。
参考資料
- 宮内庁「尺牘(龍馬裏書)」:現存する書簡の来歴と役割
- 宮内庁書陵部「木戸家文書 天47」:木戸の書簡と龍馬朱書の日付
- 高知県立坂本龍馬記念館「常設展示」:同盟成立、裏書の説明と複製展示
- 高知県立坂本龍馬記念館「所蔵品」:木戸との往復書簡と仲介に関する説明








