「船中八策」と「新政府綱領八策」は、どちらも坂本龍馬と結びつく八項目の政治構想ですが、同じ文書ではありません。「船中八策」は1867年6月、後藤象二郎と長崎から上京する船の中で話し合ったとされる改革案。一方の「新政府綱領八策」は大政奉還後の1867年11月に龍馬がまとめた、新しい政府の仕組みに関する文書です。
さらに大事な違いがあります。広く知られる「船中八策」の当時の原本は確認されていませんが、「新政府綱領八策」には龍馬自筆とされる史料が残っています。学校で習った「龍馬が船の中で八つの政策を書いた」という話と、現在見られる実際の史料を混同しないことが、歴史を理解する近道です。
この記事では、国立国会図書館、高知県立坂本龍馬記念館などの資料をもとに、二つの文書の時期・内容・実物の有無を比べます。『龍馬伝』第43話「船中八策」が好きな方も、物語をより深く楽しめるよう、難しい言葉をかみ砕いて紹介します。
船中八策と新政府綱領八策の違いを表で比較
| 比べる項目 | 船中八策 | 新政府綱領八策 |
|---|---|---|
| 時期 | 慶応3年(1867年)6月と伝わる | 1867年11月 |
| 政治の状況 | まだ大政奉還の前 | 大政奉還が認められた後 |
| 主な目的 | 政権返上と国の仕組みをどう変えるか | 新政府を誰が、どう運営するか |
| 関係人物 | 坂本龍馬・後藤象二郎ら | 坂本龍馬が起草した政体案 |
| 原本 | 当時の原本は確認されていない | 龍馬自筆とされる現存文書がある |
| 重要な特徴 | 政権を朝廷に返すことなど八つの構想 | 人材・法律・議会・軍制・貨幣など八つの具体案 |
| 残る謎 | 当時の正確な文言と成立過程 | 「○○○自ら盟主と為り」の人物が誰か |
つまり、船中八策が「政権を返すところからどう改革するか」という提案なら、新政府綱領八策は「政権返上の次に何を整えるか」という具体案と考えると分かりやすいでしょう。両者の間には、徳川慶喜による大政奉還という歴史上の大きな転換が挟まっています。
なお「船中八策の原本が残らない」ということは、龍馬と後藤が政治について何も話さなかったと証明することではありません。有名な八か条が1867年6月の船中で、そのままの文言・順序で書かれたかを確定できないという意味です。ここを分けて読みましょう。
「船中八策」はいつ、どこで考えられた?
1867年、日本の政治は大きく揺れていました。幕府が政権を守る仕組みは行き詰まり、薩摩・長州などでは武力で幕府を倒そうとする動きも強くなっていました。一方、土佐藩には、できる限り大きな内戦を避け、将軍が政権を朝廷へ返したうえで新しい政府をつくる道を模索する考えがありました。
高知県立坂本龍馬記念館は、龍馬が土佐藩船「夕顔」の船中で後藤象二郎に大政奉還を含む八つの策を提案したと説明しています。後藤は土佐藩の政治を動かせる立場にあり、龍馬は海援隊を率いて藩の外の情報や人脈を持っていました。立場の違う二人が、新しい国の姿を考えたところにこの構想の意味があります。
「船中」という名は、長崎から京都へ向かう船中で話し合ったとされる伝承に由来します。ただし、どの発言が誰によるもので、どの場面で八項目の形になったのかを、同時代の原本だけで復元することはできません。英雄一人が即興ですべてを完成させたという筋書きだけに頼らないことが大切です。
龍馬の仕事は、勝海舟の海軍教育を受け、亀山社中・海援隊を通じて人と物を動かし、薩長同盟にも関わるなど、複数の人を結び付けることでした。船中八策とされる構想も、こうした経験と幕末の政治議論の中に位置づけると理解しやすくなります。薩長同盟の六か条をめぐる龍馬の裏書にも、交渉や合意を記録する龍馬の姿が残ります。
船中八策の「八つの内容」を現代の言葉で解説
一般に伝えられる船中八策の八項目は、国立国会図書館の説明や歴史辞典に照らすと次のように整理できます。これは後世に伝わる内容の要約であり、現存する龍馬自筆の船中八策原本から逐語的に引用したものではありません。
- 大政奉還:幕府が握る政治の権限を朝廷に返し、新たな政治を始める。
- 議会を設ける:上下の議政機関をつくり、話し合いにより国の重要なことを決める。
- 能力で人を登用する:旧来の地位や役職だけに縛られず、力のある人を政治に参加させる。
- 外国との付き合いを整える:外交の規則を議論し、諸外国と関係を築く。
- 基本法をつくる:国家の長く続く土台となる大典、現在でいう憲法につながる法の仕組みを考える。
- 海軍を充実させる:海を守り、船や航海技術を使える国を目指す。
- 都を守る兵を置く:新しい政治の中心を守る軍事組織を整える。
- 貨幣・物価の制度を整える:外国との経済関係を踏まえて金銀や物の価値を扱う仕組みを考える。
こうして見ると、船中八策は単なる「徳川幕府を終わらせる」提案ではありません。政府の人材、議会、外交、法律、軍事、経済まで幅広い分野が含まれます。龍馬が政治の仕組みだけでなく、その先に必要な制度も考えようとしていたと解釈できます。
もっとも「民主主義」や「憲法」といった現代の言葉で説明するときには注意が必要です。ここで想定されていた政治は、現代の普通選挙によって国民全員が議員を選ぶ制度と同じではありません。身分を超えた人材登用の構想があることと、現代的な民主主義がすでに完成していたことは別です。
船中八策の原本は本当に残っていない?

ここは歴史ファンにとって特に面白い部分です。「龍馬が書いた船中八策の原本を見たい」と思って資料館を探す方もいるでしょう。しかし、船の中で作られたとされる当時の原本は確認されていません。龍馬に同行した海援隊の長岡謙吉が筆記したとする伝承がありますが、その伝承のままの原本を確かめることは難しい状態です。
歴史辞典などには、八項目の文章を載せたものがあります。しかし、後世に紹介された史料を、1867年6月に書かれた本人の原本と取り違えてはいけません。後の龍馬伝記や研究に引用された文章には、細かな違いがあることも指摘されています。
だからといって「船中八策はすべて創作だった」と言い切るのも早計です。龍馬が後藤象二郎と相談し、政権返上と新政府の構想に関わったことは、国立国会図書館や高知県立坂本龍馬記念館の歴史解説でも取り上げられています。確かな政治的背景と、定型化された八項目の文言の成立過程は、分けて検討する必要があります。
歴史は、残っている資料から少しずつ姿を確かめる作業です。「船中八策の原本は未確認」という情報は、龍馬の魅力を損ねるものではなく、実像に近づくための大切な手掛かりになります。
大政奉還で何が変わった?1867年10月の政治的転換
1867年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷に返すことを申し出ました。翌15日、朝廷はこれを受け入れます。これが大政奉還です。将軍が政権を返したことで、従来の幕府だけを中心とする政治の枠組みが変わり始めました。
土佐藩では後藤象二郎や前藩主・山内容堂が大政奉還を進めました。龍馬も1867年10月13日付の後藤宛の草案で、迫る政治的な決断に向けて強い言葉で励ましています。高知県立坂本龍馬記念館には、この龍馬の書簡草案が所蔵されています。
ただし、大政奉還によって、その場ですべての対立がなくなったわけではありません。実際に誰が新しい政治を動かすのか、徳川家の立場をどう扱うのか、軍事や法律をどうするかという問題は残りました。そこで次に注目するのが、1867年11月の「新政府綱領八策」です。
ドラマの流れと比較する方は、『龍馬伝』第47話「大政奉還」のあらすじも合わせて読むと、政権返上が何を意味したのか整理できます。
新政府綱領八策とは?現存する龍馬の史料
「新政府綱領八策」は慶応3年(1867年)11月、龍馬がまとめたとされる新政府の構想です。国立国会図書館では「石田英吉関係文書」の一部、『亡友帖』に含まれる文書として史料を公開しています。高知県立坂本龍馬記念館の所蔵品案内では、龍馬自筆とされる文書が二通伝わり、国立国会図書館と下関市立歴史博物館に所蔵されると紹介されています。
資料には「坂本直柔(なおなり)」という署名が見られます。龍馬は通称で、直柔は本人の実名(諱)です。歴史文書に普段知られている名前と異なる署名があるのは、江戸時代の人物の命名の仕組みと関係しています。
新政府綱領八策の原文は、国立国会図書館の全文テキストで確認できます。自筆とされる筆跡は、国立国会図書館「あの人の直筆」でも紹介されています。テレビドラマの再現場面だけでなく、本人と結びつく史料に触れられるのが魅力です。
新政府綱領八策の八項目を、やさしく読み解く

新政府綱領八策には、第一義から第八義までの八つの項目があります。以下は原文の趣旨を、現代の読者が読みやすいようにまとめたものです。原文の正確な文言は国立国会図書館のテキストをご覧ください。
- 第一義:有名で実力のある人を招き、政府の相談役にする。人の能力を新しい政治に生かそうとしています。
- 第二義:適任の諸侯を政治に用い、実体のない古い役職を整理する。旧来の官職をそのまま残すだけではない改革案です。
- 第三義:外国との交際の方針を定める。開国後の日本が、各国とどう付き合うかを考えます。
- 第四義:律令を整え、長く守る基本法を定める。「無窮の大典」という表現が登場します。
- 第五義:上下の議政所を設ける。現在の議会につながる、話し合いによる政治の仕組みです。
- 第六義:海軍と陸軍を扱う機関をつくる。国を守る軍事の仕組みを整える考えです。
- 第七義:親兵を設ける。新しい政治の中心を守る兵力を考えています。
- 第八義:金銀や物価について外国との均衡を図る。交易と経済を国家の課題として捉えています。
この並びから分かるのは、龍馬の構想が大政奉還という一つの政治事件で終わっていなかったということです。新政府にどのような人材を置き、何を議論し、法律と軍事をどう支えるか。新しい政府を動かすための仕組みが中心になっています。
船中八策との分かりやすい差は、「政権を朝廷に返す」という出発点が、11月の新政府綱領八策ではすでに起きた出来事になっていることです。政治の課題が、政権返上の提案から、その後の制度づくりへ移ったと見ることができます。
「○○○自ら盟主と為り」の謎|誰が新政府を率いる予定だった?
新政府綱領八策の最後には、特に興味深い一節があります。「○○○自ら盟主と為り」という、名前を伏せた表現が残っているのです。国立国会図書館の解説では、ここに入る人物について山内容堂説、徳川慶喜説などがあり、通説は定まっていないとしています。国際子ども図書館の歴史資料解説では、松平春嶽も候補に挙げられています。
なぜ名前を伏せたのか、本人があえて誰にも決めなかったのか、それとも特定の人物を想定していたのか。史料から一つに確定するのは難しい問題です。「龍馬は必ず徳川慶喜を新政府のトップに据えるつもりだった」などと断定するのは正確ではありません。
この時期、幕府は政権を返したとはいえ、徳川家の政治的・経済的な力は大きなものでした。一方で、土佐藩の山内容堂や越前福井藩の松平春嶽など、新しい政治の枠組みを考える有力者もいました。誰を中心に新政府を動かすのかが決着していないからこそ、伏字の意味は大きいのです。
歴史の面白さは、答えがすべてそろっていることではありません。龍馬本人に関係する文書が残っていても、読んだだけでは決められないことがある。その事実を知ると、幕末がいかに先の見えない時代だったかが伝わります。
船中八策が五箇条の御誓文にそのまま採用されたの?
「船中八策は明治政府の政策の原案になった」「五箇条の御誓文につながった」という説明を目にすることがあります。政治の議論を尊重する姿勢や人材登用の考え方には共通点があり、後の新政府の政策と比較することは有意義です。しかし、五箇条の御誓文の五項目を龍馬がそのまま書いた、と考えるのは行き過ぎです。
明治新政府の政治構想には、多くの人々の意見や情勢が関係しました。龍馬の船中八策とされる構想にも、後藤象二郎との相談や土佐藩の政治的判断が含まれています。新政府綱領八策に見られる構想が後世の制度づくりに近いとしても、一つの文書がすべての法律や制度の直接の設計図だったとは限りません。
また、当時の「上下議政所」は現代日本の国会とは同一ではありません。制度はその後の長い政治過程の中で変わりました。現代の議会や憲法に近い発想が見えることと、明治政府がそれを全てそのまま採用したという主張は、慎重に区別する必要があります。
龍馬の価値を伝えるなら、後の政策をすべて龍馬一人に結びつけるより、幕末に対立していた人々をつなぎ、政権のあり方を考えた一人の重要な人物として捉える方が、史実に基づいた魅力を伝えられると思います。
『龍馬伝』第43話「船中八策」は史実とどう違う?

2010年10月24日放送のNHK大河ドラマ『龍馬伝』第43話の題名は、まさに「船中八策」です。NHKオンデマンドの公式あらすじでは、龍馬(福山雅治)が後藤象二郎(青木崇高)と京都へ向かい、幕府の後に必要となる政治の道筋を考える姿が描かれます。
一方、京では山内容堂(近藤正臣)や徳川慶喜(田中哲司)をめぐる政治の動きがあり、龍馬と中岡慎太郎(上川隆也)の考えにも違いが生じます。ドラマはこうした政治の複雑さを、対話や場面の転換で分かりやすく表現します。
しかし、歴史上の船中八策については当時の原本が未確認です。画面に出てくる書面の文字や、龍馬と後藤が交わす具体的な会話を、1867年6月の実際の記録として断定することはできません。ドラマにはその時代の政治的な議論を伝える力がありますが、現存する資料と同じものではないのです。
NHKの物語を思い出したい方は第43話「船中八策」のあらすじと見どころへ。政治がその後どのように動いたかは第47話「大政奉還」も参考になります。ドラマの感動を入口に、実物の新政府綱領八策を読むと、新たな発見があるでしょう。
よくある質問|船中八策と新政府綱領八策
Q. 船中八策は坂本龍馬が本当に書いたのですか?
龍馬が後藤象二郎と新しい政治について相談したとする説明は歴史資料にあります。ただし、船中で書かれた当時の八か条の原本は未確認です。「龍馬が当時その文章を書いた」と断定するより、伝承と資料の残存状況を分けるのが正確です。
Q. 船中八策と新政府綱領八策は、両方とも八項目ですか?
はい。船中八策は一般に八項目として伝わり、新政府綱領八策には第一義から第八義までの八項目が書かれています。ただし両者は時期も文面も異なります。
Q. 実物の新政府綱領八策はどこで見られますか?
国立国会図書館の電子展示で画像とテキストを閲覧できます。高知県立坂本龍馬記念館にも複製があります。現存の自筆とされる資料の所蔵先としては、国立国会図書館と下関市立歴史博物館が挙げられています。実物展示の有無は各施設の展示予定によります。
Q. 新政府綱領八策の「○○○」は徳川慶喜ですか?
徳川慶喜説はありますが、山内容堂や松平春嶽を想定する説もあり、定説はありません。国立国会図書館の解説も、その人物を一人に決めていません。
Q. 龍馬は大政奉還後、すぐに新政府綱領八策を書きましたか?
現存文書には慶応3年11月という日付があり、10月の大政奉還後の新政府をめぐる構想として理解されています。ただし文書作成の細かな経緯や意図のすべてを一つの日付だけで断定することはできません。
まとめ|二つの八策を分けると、龍馬の政治構想がよく分かる
船中八策は1867年6月に後藤象二郎と相談したとされる改革案で、大政奉還と新しい国家の仕組みを考えたものです。ただし、当時の原本は確認されていません。新政府綱領八策は、同じ年の11月、大政奉還の後に龍馬が作成したとされる文書で、龍馬自筆とされる史料が現在も伝わっています。
「船中八策=政治を変える提案」「新政府綱領八策=新政府をどう動かすかの案」と整理し、その間に大政奉還があったことを意識すると、二つの関係が分かりやすくなります。「○○○自ら盟主と為り」という謎も含め、龍馬の最期まで政治の未来は不確かだったのです。
関連する歴史の流れをもっと知りたい方は、薩長同盟六か条と龍馬の裏書、『龍馬伝』第43話「船中八策」、「坂本龍馬の生涯と歴史」の記事一覧へ進んでみてください。






